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[ culture / film ]

感情と脳のズレ|「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」レビュー

m / 2026.09.26 12:17

幸運なことに、私は極めて「暴力」から遠い世界を生きてこれたように思う。

本作は戦争映画であり、ベトナム戦争というあまりに残酷な歴史への反省、実際に戦地で人間が体験することの恐ろしさを、個人のPTSDの体験を通して浮かび上がらせるものである。何度繰り返しても足りないほどの「戦争反対」というメッセージを受け取りつつ、私が気になったのは「暴力」についてのことだった。

国家の暴力装置?

警察や軍隊は、マックス・ウェーバーの言うところの「国家の暴力装置」であり、この社会で唯一、合法的に他者へ暴力を行使することが許可されている機関である。戦時下においては、暴力機関による殺人行為は「非人道的でなければ」犯罪には問われない。「人を殺す」という行為に、人道的も非人道的もあるか、と思うが、とにかく社会のシステムはそういうことになっている。一方で人間は、日常生活で人を殺したり殺そうとしたりすると、終身刑や死刑に処される。

国がコントロール権を握った殺人は無実であり、個人が起こした少数の殺人は重罪として処罰される。
この矛盾以外の何者でもないルールは、日本における死刑制度を見ても明らかである。

ただ、国民が「国は人を殺していい」という一つのルールを従順に受け入れていることによって成立している(ように見えている)に過ぎない。

暴力を起こすもの

この映画にはいくつもの暴力が出てくる。

暴力性が許容される異常な世界(そう思い込まなければ生き残れない世界)と、わずかな暴力性すら目立つ平穏な日常世界との対比。日常や感情を蝕む暴力、突発的に膨れ上がる暴力性、そして暴力への「慣れ」と「不感症」。

「ネルソンさん」がPTSDに苛まれる姿を見ると、暴力は個人の性質というよりも環境要因が明らかに作用して引き起こされるものだとわかる。

本来「社会的動物」である人間にとって、この世界は「人間同士での関わり合い」でしかなく、同じ「人間」として、相手が抱く痛みへの共感が生まれるのが自然である。しかし、殺戮や残忍な行為を行うため、頭(認知)の理解で無理やり「相手は人間ではない」と捻じ曲げる。そうした不自然な行動によって自分の精神が崩壊しないように、感覚を麻痺させるしか適応する方法はない。その結果、感情と脳(認知)がズレていく。

ネルソンさんが「自分が相手を殺したかったのだ」という潜在的な本心を直視したくはなかったものの、最終的にそれを受け入れたことで、自分の中の精神的な分裂が治ったことは、まさにそういうメカニズムを示しているのだろう。

暴力というのは、感情と脳がズレてしまった時に起きるものなのか?

感情と脳のズレ

これだけ戦争映画があり、資料館があり、戦争を体験した語り部の言葉があり、平和学習が行われているにもかかわらず、なぜ「戦争反対」という大前提を世の全員で共有できないのか。

そこに「感情」と「脳」の話が繋がるのだろう。

「戦争したらいい」と言える人は、理屈や損得といった「脳」だけで物事を考えている。先人が残した苦痛や悲しみといった「感情」に触れてきてないのか、あるいはその「感情」を「脳」で抑えつけ、正当化している。結局のところ、感情に直面するのが怖いのだろうと思う。

直面するのが怖い感情と�いうのはあるだろう。

直面しないで生きていきたい感情、直面するのが億劫な感情、そもそも想像力を働かせなけれは直面できない感情。それらから逃げるのは、究極的には弱い自分を守るためだろうと思う。

戦争が起きてしまったら必ず直面せざるを得ないその恐ろしさに、先人が残してくれた知恵を通じてあらかじめ向き合おう(そして実際に直面しないために阻止しよう)とする人と、直面することを避けて過去を忘却し、実際に起きてから直面する人とで、話が噛み合わないのは残念なことである。

やはり私たちは「直面」しなければならない。

それは戦争のことはもちろん、個人の中にある心のしこり、自分の行動が他者へ及ぼす影響、そして社会で起きるすべての恐ろしいこと。どんなにAIが発達しようとも、「直面する」ことだけは人間にしかできず、人間自身が対処するしかないことだから。

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