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建築家の名前は覚えられない|「ほぼ、空:青木淳 + リチャード・タトル」東京オペラシティ・アートギャラリー

m / 2026.09.22 07:19

私は時々、来世は建築家になってみたいと思うことがあるが、今世ではとても無理だということを知っている。

大学院に入って、初めて建築科出身の人と出会った。
彼と一緒に展覧会を作ることになったとき、私たちは展示室の真ん中に斜めに2枚壁を立てることにした。
私は、斜めの2枚が、どこでも良いと思った。むしろ無造作に置かれることが良いとも思っていた。

しかし建築出身の彼は、その「斜め」を計算していて、その計算は他の壁との距離、その距離の規則性やルールが全体として機能することを重視していた。

数字で「無造作」を作っていくアプローチは、今世の私にはとても無理だ。数字も、数学も、難しい。

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東京オペラシティギャラリーで2026年9月23日まで開催中の「ほぼ、空:青木淳 + リチャード・タトル」。

この展覧会は何回か私のインスタのストーリーズにも出てきていて、これは行きたいなと思っていたので、会期終了前に滑り込んできた。

私は建築のことが何もわからないのと、リチャード・タトルというおじいさんも知らないので、事前の情報はほぼゼロの状態で、でもタイトルの「空」がいいなと思って行ってきた。内容が理解できなくても、誰かの思う「空」が見られる体験なら、面白いだろうと思った。私が「空」を作るなら、どんな感じになるだろう。

ただ、「空」というのはなんだかずるい言葉でもある。

全然現代の日本人に根付いていない「空」という仏教のような、東洋思想のような枠組みをいきなり引っ張り出してきて、「クウ」とも読んでみたりするような仕草が、ちょっとずるい感じがする。でも27年生きてきて、クリスマスには詳しいけど、西田幾多郎は全然わからない、というのは私の問題のような気もするので、東洋思想の本を読んでみようかしら。

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ギャラリーの入り口に入ると、受付のあたりからうっすら暗い。
赤、青、黄緑のボワっとした光に照らされた様子を見て「ここから展覧会が始まっているのか」と理解する。

展示室に入ると、明らかに物が少ない。そう感じるのは、上から吊るされたバスケット(草が無造作に入れられている)が、普段あまり見ない展示室の上部まで意識を拡張させるからだろう。

説明を読むと、普段の寺田コレクションがここで展示されて、気球と吊るされた草が同期するような?などと書いてある。
「吊るされている草は照明で、私たちは斜め上を見る?」

青木淳が空間設計を担い、リチャード・タトルが作品を担い、そこに引っ張り出されてきた野又穫の作品がとても良い。無時間性、悠久に魅了される。キャンバスからじわっと発光する光、絵に広がる建物のスケール感の縮尺が、展示室の空間と同期している。いつか家に欲しいなぁ。

展示室は、なんだか木を面でじわじわと熱したような匂いがする。

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次の部屋には野又の作品はなく、高い天井から吊るされた草と柱のみで構成されている。
全体的に極力減らされた白い照明が、部屋の半分を満たしている。
野又の作品はないのにあるような。空気だけが展示室に広がるような。

柱が3本立っているだけなのに、とてつもなく高い柱のそびえる世界を歩いているような感覚になる(多分ものや刺激がさらに少ないから、より空間が伸びて感じる)。
この部屋に作られたベンチに座ると、まえの展示室の壁に飾られた野又穫の絵が覗く。

ここまで来ると、自然光ではない照明が邪魔だと感じるのと、心なしか照明に照らされた植物(=光自身)が元気なく見える。
二面の壁にはタトルの色紙の作品があるが、これはよくわからない、、

地面に散らばる草の葉は、光のかけらか。

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2階に上がると、いつもは寺田コレクションが飾られる部屋にも、ただ柱の空間が広がっている。
手前の部屋はほぼ何もなく、側面の壁近くに柱が3本。

そりかえった上部からの自然光が、手前には多く、奥にはわずかに入り込み、柱を柔らかく照らしている。部屋全体に広がる何もない空間は、その柱への光を作り出すためにあるスペースということか。

奥の部屋に進むと、上に薄いネットが張られた天井に、突き刺すように柱が立っている。
手前は暗く奥は明るくなっていて、やはり照明がやかましく感じる。

ネットに反射し拡散した光が柔らかく柱を照らしている中を歩くと、天井が低く、自分自身もきゅっと小さくなったような圧縮感がある。1階の広々とした空間と、2階の縮まった空間の対比が面白い。

「会場外にも展示空間が広がり」、普段はショップの場所にタトルの作品を展示しているが、これは蛇足?
ここにある意味も、展覧会での位置付けも、よくわからなかった。

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既存の展示室のルールを組み替える、というのはいかにも建築家的で、むしろ建築家にしかできない発想なんだろうと思う。

以前、豊田市美術館で見た「玉山拓郎FLOOR」展で、普段展示室の場所全体に、モノリスが介入しているという展示を見た。入り口から室内、渡り廊下に至るまでに重厚感のあるモノリス的な何かが張り巡らされていたが、私は豊田市美術館が初めてだったので、普段との違いがわからず、「はあ」という感じで終わってしまったような気もした。

今回の展示は、私が以前からオペラシティに何度も行ったことがあり、それを踏まえて自分に内面化された「オペラシティを回るルート」があったからこそ、青木淳の「すべての作品を取っ払う」「コレクション展示と企画展示を入れ替える」「入り口+会場外までの有機的なつながりを作る」という新たなルールが身体的に新鮮に感じられた。しかし今回が初めてだという人は、これをデフォルトとして受け止めるのみだろう。そこには空間設計に対するプラスの評価は生まれ得ない。

つまり今回の展示でターゲットとされているのは、明確に「オペラシティ・アートギャラリーを知っている人」と限定されていたわけで、その潔さに少し驚きながら、納得もする。基本的に持ち運び可能なアートと違い、建築は常にそこにあり続けるものだから、そのアプローチの違いが生まれるのは当然だろう。

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Tokyo Art Beatのインタビュー記事を読んだ。

「私はルールに根拠はないと考えているんですね。建築は人間が使う際の機能などに関する多様なルールがあるけれど、その機能も変わり得るものだから、どんなルールもじつは根拠はない。ただ、根拠はなくてもルールは必要だというのが建築を作るときの私の考え方です。それがないと全体の関係が緊密性を持った状態にならないからです。」

「ルール」と言われると、それを覆すのは、別の、より納得のいくルールを持ってこない限り難しい。「ルールなんていらない」と言いはるのは、ただ幼い人のように見えて恥ずかしい。

ただ、このインタビューでは、当初青木が持ってきた黄金比の「ルール」が、タトルによって簡単に崩されたことも話されている。

「いろいろと考えたんだけど、やっぱりルールは論理的でない方がいいと思う」と。会場の図の上に石を3つ投げて落ちた地点という、根拠のない偶然から展覧会を作り始めないかと提案されました。 」

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建築家の名前は覚えられない。

斬新なルールや、空間が生み出す人間のコントロールなどに敬意は表するものの、建築全体を覆う全体的な「ルール」自体が、私には窮屈に感じられて、合わないのだろうと思う。

タトルの作品の魅力は私にはさっぱりだったが、本展の心地よさは、青木淳にタトルが加わっていることがミソなのだろう。タトルのおかげで、私は自分を「未熟で建築のルールを理解できない頭の弱い人間だ・・・」という気持ちではなく、心地よい気持ちで展覧会を後にすることができた。

ありがとう、タトル。

実家が京王線沿線だったので、オペラシティがある初台駅を含む新宿までのルートは常に定期券内に入っていた。学生料金だと800円で安いし、大学生が終わって、会社員になって、また大学院生になって、と毎会期のように足を運んでいたが、引っ越してからめっきり行かなくなってしまった。新宿からさらに少し先、という距離が、絶妙に足が向かない。と思っていたけど、今回初めて、渋谷駅からオペラシティまで出ているバスの便利さに気づいたので、また行けるようになるかもしれない。
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