pebbles magazine
[ culture / film ]

境目を融解する|「急に具合が悪くなる」レビュー

m / 2026.09.11 13:27

※ネタバレ含む

小規模で内向きな公演や展覧会が、同じ思想を持つ人同士の自己満足にしか思えない時がある。

芸術の大学まで行っておいて、こんなことを言ったら周りから軽蔑されてしまいそうだと思いながらも、頭のどこかに常にこの冷ややかさが離れない。ここ数年、いや、そうした世界に出会った大学生くらいから多分ずっと。

この映画に出てくる演劇は、間違いなく「それを求めにきた」少ない人たちのための、あれだ。「舞台と客席の境を無くしたくて」客席に楽器を置き、自発的に観客が鳴らす音が舞台に介入する、という演出が恣意的に仕組まれている。私はあの種のものにいつまでも恥ずかしさ(自分やってるな、と思う)があるので、そういうことを何の邪心もなく組み込む真理の純粋さが冒頭から苦手だったのかもしれない。演出のない舞台などないんだけど。

だから中盤で、真理がホワイトボードまで使って、もったいぶって資本主義の構造の話をし続けるシーンは、かなり厳しいものがあった。マリーが「それは私への嫌味が含まれている?」と聞くのも最もだし、最後までマリーに批判される点など何もないと思った。資本主義の構造など、哲学科で形而的に物事を考えてきた真理よりも、文化人類学を専攻して資本主義の外側にある事例を見てきたであろうマリーの方が、よっぽど理解しているのでは?マンスプレイニングならぬ真理スプレイニング・・そんな態度がどこまでも鼻についてしまう。

そもそも資本主義が生み出す、「今ここ」のみを最適化し、それ以外を搾取する構造は、この世界全体を覆っている。

真理とマリーは、かつて東日本大震災を境にお互いが移動しすれ違い、そのまましばらくの時間を過ごした。日本とフランスという時間的にも地理的にも離れた国が、真理の病状の進行に伴い、フランスにいた次のシーンには日本の京都の山奥に一緒に移動している。さながら瞬間移動のようで、それはまさに資本主義が実現した「今ここ」の便利さを享受した結果だろう。マリーが介護施設で理想に燃えていたユマニチュードは、確かに現場の疲弊やリスクを度外視した「今ここ」を整えるのみの理想論かもしれないが、反対に従来の方法では、認知症患者の人権を損なうことで看護師たちの「今ここ」の楽さを優先するものだったはずだ。真理はあのシーンで、一体何が言いたかったんだ?

この映画に通底する、両者の境目を融解するというテーマに則り、結局マリーは対患者だけでなく共に働く従業員にも理解しようと努力することで、介護施設のベストな環境を見つけ出していく。そこにどれだけ真理の影響があったのだろうか。もしかすると、関心を患者に固定することなく、同僚、そして真理と話すことで自分へと融解していくことが、彼女にとっての処方箋だったのかもしれない。

斜め上に広がる観客席、左上から斜め下に階段を下っていく二人、中庭を横切っていく一行、丘の上に登って下っていく智樹と真理たち。昨年出た本に『斜め論』というのがあったけど、垂直ではなく斜めへ動いていくのが心地よい。時には並行して歩いたり走ったりしながら、観客も同じ時間を過ごしていく。大ヒット韓国ドラマ「愛の不時着」で、夜行列車に乗って、途中下車しながら焚き火を囲んだり、また乗り込んで夜を明かしていくシーンがある。登場人物と視聴者が同じだけの時間を過ごして、朝を迎えていくシーンは贅沢で、彼女たちの距離が縮まる心の動きを一緒に体感した。もう二度と来ることのない、学生時代の合宿で夜更かしをしているような感覚を疑似体験しているようで嬉しい。

この介護施設が、もとは精神病棟だったこと(設定)は明らかに意図的で、1960年代に「精神病」として精神病棟に入れられた人々がいたように、現代では認知症患者が社会と切り離され、モノ扱いされていることと重ねているだろう。ワイズマンの「チチカット・フォーリーズ」から60年経過した現代の変化と希望を描きたかったのかもしれない。

原作読んでないので、どこまでが濱口竜介の意図か分からないのが残念だけど、見応えのある映画でした。

すぐに配信されるだろうけど、3時間を等倍速で見られる自信がなかったので、映画館に行けてよかった
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